晴れのち雨、ところにより相合傘
 朝、家を出る時は雲はあったが晴れていた。遅刻ギリギリで家を出ようとしていた火原は、食パンを口に銜えると急いで出掛けようとした。
「和樹ー、天気予報で夕方から雨が降るって言ってたから、傘持ってきなさいねー」
 母親が台所から叫ぶが、ほとんど耳には入っていない。雨に降られて困るのは自分だと言うのに。


 お昼ごろになると、天気予報が当たっているのを示すかのように、空には黒い雨雲に覆われていた。
「何か、曇ってきたね」
 昼バスをしていた火原は、一緒に遊んでいた友達に言った。
「夕方から雨って話だろ。帰るまでもってくれると助かるんだけどな」
「ああ、大丈夫、大丈夫」
「どうしてそんな事が言えるんだよ、火原」
「え、何でかな。大丈夫だって思ってると、意外と平気だったりするんだよね」
 火原はあまり深く考えずに答えた。
 確かに火原の読みは、半分は当たっていたのかも知れない。授業が終わってしばらくは降らずにもっていた。しかし最終下校時刻まではもたなかったのである。
 授業が終わってすぐに下校していれば雨に降られずに帰れたのである。だが放課後はオケ部があるし、学内コンクールが始まってからは部活が無くてもセレクションの練習で、時間ギリギリまで残っているので、どっちにしろ変わらないといえば変わらなかったのかもしれないが。


「あーあ、とうとう降ってきちゃったか」
 バタバタバタと、大急ぎで走ってきた火原は玄関口で呟いた。そこにいた同じクラスの友達の存在にも気づかずに。
「やあ、火原。今、帰りかい?」
「あれ、柚木。こんな所で何してんの? 帰らないの」
 声を掛けられて始めて柚木に気づいた火原は、走ってきた直後だったがそれほど息も切らさずに答えた。
「今、帰るところだよ。火原も乗っていくかい。正門前に車が来ているから」
「え、いいの」
 柚木の誘いに嬉しそうに答えた火原だったが、すぐに残念そうな顔をした。
「あ、ごめん。俺、人と待ち合わせしてるんだった」
 そう言って項垂れてる姿は、まるで怒られてる子犬のようでもあった。
「待ち合わせ? 日野さん、かな」
「そう、そうだよ。すごいな柚木。すぐわかっちゃうなんて」
 すんなりと待ち人の名前を出した柚木を尊敬している火原は、今さっきまで項垂れていたとは思えない程表情が変わっていた。
「そんなすごい事でもないよ。練習室を出た時に日野さんに会ってね。雨が降ってるから送ろうか、って聞いたら、火原と待ち合わせしてるからって言われてね」
 種明かしをすると、火原はなんだー、という顔をした。
「そっか、そうだよね。日野ちゃん、練習室で練習してるって言ってたし」
「火原は、どうしてたの?」
「俺? 俺はオケ部に出てたんだよ。今日は王崎先輩が来る日だから、いろんな事を教えてもらおうと思ってさ。楽器は違うけど、教わる事っていっぱいあると思うんだよね」
 火原は王崎から教わった事を、一つ一つ挙げていった。
「いい事だね。違うパートの人からも教われるって。ましてや、王崎先輩はコンクール参加者だったからね。参考になる話も聞けたんじゃない?」
「うん、そうなんだよね」
 火原は楽しそうな顔をしていた。だがそこでふと別の疑問が頭をよぎった。
「あれ、練習室で日野ちゃんに会ったんだよね?」
「うん、そうだよ」
 火原の問いに柚木は、「今度はどうしたの」と軽く笑いながら尋ねた。
「え、あ、うん。何故柚木はここにいるのに、日野ちゃんはいないのかなって。一緒にここまで来たんじゃないの?」
 下校時間になって練習室で会ったのなら、二人で一緒に来てもいい筈だ。二人は全く知らない同士ではないのだし、ましてや今回のコンクールの参加者であり、柚木は香穂子に「送ろうか?」と声をかけているのである。その申し出を断ったとしても、この場まで別々になる必要はないだろう。
「ああ、その事? 雨が降ってるって聞いて、教室に傘を忘れたからって取りに戻ったんだよ。ここに火原が待ってるようだから一言伝えて下さいって頼まれたからね」
「なら意地悪しないで、最初から教えてくれたっていいじゃん」
 火原は少し拗ねたような顔をした。その顔を見て柚木は、本当にころころと表情がよく変わるもんだと感心していた。
「ああ、ごめんごめん。意地悪したつもりなんてなかったんだけど、火原がそう取ったって事は、僕にも原因があるよね」
 柚木は少し眉を顰めながら笑った。その顔を見て、今度は火原が慌てた。
「あ、別に柚木だけが悪いって言ってるんじゃないよ。俺が聞かなかったのもいけないし、それに他の話をしてたんだし…」
 また火原は項垂れた。この数分で、火原の表情はどの位変わったのだろうか。
「日野さんの伝言も伝えたから、僕は先に失礼するね」
「ありがとう、柚木。じゃあ、また明日な」
 火原に見送られて、柚木は先に帰っていった。

「そうか、日野ちゃん、傘取りに行ってるんだ。早く来ないかなー」
 火原は香穂子を待つのを嬉しそうにしていた。香穂子と一緒に話をしていると、いろんな音楽の解釈が出てきてとても楽しいのだ。コンクールの話だけでなく、その他の他愛の無い話でも楽しく話せる。部活の間も少しそんな事を考えていたら、集中出来てないのを王崎先輩にばれてしまって、少し注意を受けてしまったのだ。
 柚木が帰って少ししたら、後ろからパタパタと走ってくる足音が聞こえた。
「火原先輩、お待たせしました」
 慌てて走ってきたので、息を切らせながら香穂子は謝った。
 香穂子は天気予報を信じて長い傘を持ってきていた。それをうっかり教室に置いたまま練習室に行ってしまったのだそうだ。練習室は外に音が漏れない代わりに、外の音も中には入ってこない。
 練習に没頭していたら、気づけば外は雨が降り出していたのだ。雨に気づいたのも、下校のチャイムが鳴り帰る準備をしていた時だった。
「大丈夫だよ、日野ちゃん。俺も今来たばかりだから」
 香穂子は火原のその言葉を聞くと、ほっとため息をついた。だがふと思い出したのか火原に一つ聞いた。
「柚木先輩に伝言をお願いしたんですけど…」
 もう火原がいるものだと思い込んで香穂子は柚木に、「火原先輩がいたら伝えて下さい」と伝言をお願いしたのだ。
 もしかして柚木が来た時に火原がいなかったのでは、と思ったのだ。香穂子も、「いたら伝えてくれ」とお願いしたので、いなかったらそのまま帰ってもいい、という意味合いを込めたのだ。
「伝言もちゃんと聞いたよ。じゃあわざわざ俺が来るのを待っててくれたのかな。明日きちんとお礼言っとかなきゃ。じゃ、日野ちゃんも来た事だし、帰ろうか」
 火原はそう言うと、鞄の中に手を入れた。今朝、母親の言葉を半分流していたのは、確か鞄の中に折りたたみの傘が入っていたと思ったからだ。
 そう思って鞄をあさるが、どれだけ探っても傘に手がぶつからない。
「どうしたんですか?」
 未だに鞄と格闘している火原に、香穂子は不思議そうな顔つきで尋ねた。
「いや、折りたたみの傘が入ってるはずなんだけどさ、見当たらなくって」
 火原は鞄の中をひっくり返す勢いで、傘を探した。だが、折りたためるとは言っても限度がある。これだけ探しても見つからないのであれば、最初から鞄の中には入っていないのだろう。
「先輩の言ってる傘って、紺の折りたたみの事ですか?」
 香穂子はふと尋ねてみた。
「うん、そうだけど。どっかに落としちゃったのかなー。先週までは鞄の中に入ってた筈なんだけど」
 火原の返事を聞いて、香穂子は思い当たる事があったらしい。
「先週って、いつの事を言ってます?」
「え? ちょうど1週間前かな。天気予報で降水確率60パーセントって言われて持ってきたら、結局降ったのは夜になってからだったから、そのまま鞄の中に入れっぱなしな筈なんだけどな」
「あの、先輩。先週末、帰りご一緒した時にその傘使った事、覚えてませんか?」
「え?」
 香穂子の言葉を聞いて、火原は少し固まったままで一所懸命思い出そうとしていた。その証拠に、両の眼だけがあっちこっちに動いているのだ。
「あーーー! 思い出した。帰りがけに公園に寄った時だよね。そっか、その時に使ったんだっけ」
 火原の今の姿を見て、香穂子は思わずクスクスと笑ってしまった。
「ひどいな、日野ちゃん。笑わなくてもいいんじゃない」
「あ、すみません、火原先輩。いつまでもここにいる訳にはいかないですから、そろそろ帰りませんか?」
「でも、俺、傘が…」
 火原はがっくりと肩を落とした。そんな火原を見て香穂子は、持っていた傘を広げて軽く火原の前に差し出した。
「先輩。入りませんか?」
 香穂子の一言で思い切り笑顔になった火原は、とても嬉しそうだった。
 香穂子が傘を少し高く掲げると、火原は変わりに傘を持った。火原の方が背が高いから、そうしてもらった方が香穂子も助かるので、そのままお願いした。
「日野ちゃんと相合傘出来るなんて、嬉しいなー」
 帰る途中も火原は上機嫌で、二人の会話は途切れる事はなかった。

 そして香穂子の家の前に着いた。
「日野ちゃん、傘、ありがとね。じゃ、また明日」
 そういって火原が鞄を傘代わりに頭に乗せて走っていこうとした。
「あ、先輩。待ってください。傘、使って下さい」
 香穂子は今まで差してきた傘を火原に差し出した。
「え、でも…」
 火原は戸惑いながらも、傘を受け取ろうとはしなかった。
「どうしたんですか? 遠慮なさらずに使って下さい」
「あ、でも、ね」
 火原は恥ずかしそうに、遠まわしに断ろうとしていた。だが、ようやく伝える言葉を思いついた。
「あのね、気持ちは嬉しいんだけど、俺一人でこの傘使うには、ちょっと恥ずかしいかなー」
 火原は顔を赤くし、軽く苦笑いしながら言った。
 今日、火原と一緒に入ってきた香穂子の傘は、可愛らしいピンクの傘。香穂子と二人ならまだ別の恥ずかしさはあっただろうが、さすがに一人で可愛い女物の傘を使うにはちょっと抵抗があるらしい。
「あ、気づかなくってすみません。ちょっと待ってもらっていいですか」
 香穂子はそう言うと玄関を開けると、靴箱の横に置いてある傘立ての中から父親の傘を一本選ぶと、また外に出てきてその傘を火原に渡した。
「父のですけど、これなら大丈夫ですよね。返すのはいつでもいいんで、使って下さい」
 そういって差し出されたのは、ごく一般的な黒の蝙蝠傘。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 火原は傘を受け取って、さっそく広げた。
「すぐ返しに来るからね。じゃ、また明日」
 そう言って火原は帰りかけようとした。香穂子もそれを見て、家の中に入ろうとしたが、すぐに火原に呼び止められた。
「香穂ちゃん」
 いつもと違う呼び方で呼ばれ、香穂子は少し頬を赤らめながら振り返った。
「明日の朝、返しに来るからさ、そのまま一緒に学校行かない?」
 火原からのお誘い付きである。香穂子が返事も出来ずに少し俯いたままでいると、火原も自分がいつもと違う呼び方をした事に気がついた。
「あ、ずっと香穂ちゃんって呼びたいって思ってたんだけど、駄目?」
 そう聞かれて香穂子は、声も出さずに首を振った。
「よかった。じゃあ、香穂ちゃん。これからずっと一緒に登下校しようね」
 満面の笑みでそう告げると、火原は香穂子の返事を聞かないまま、雨の中を借りた傘を差して走っていった。折角傘を貸しても、これでは濡れてしまうという事も火原は気にしなかった。



 最終セレクションが終わった後、香穂子が『愛のあいさつ』を火原に聞かせる事になるのは、そう遠くない話である。
《終》

 雨に関するお題で、このお題を見た時から火原×香穂子で書きたいと思ってました。お題そのものが火原の言葉に思えてしまったのと、後はネオフェスの時のドラマの影響もあったかもしれないですね。(DVDで見ただけですが) 岸尾さんの「火原、合羽は?」「火原、車は?」という問いに戸惑いながら「合羽はないよ、傘もない」「車か、そうきたか。車はないよ、傘もない、合羽もない」と何とか返していた森田さんの必死さが印象的だったせいですかね。
 折角なので登下校お誘いと、愛称で呼んでもいい? っていうイベント(?)も一緒に付け加えてみました。
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